具合の悪さがまたひどくなった感じがします。ウェーだ。
お昼から仕事。厳しいAPI仕様との闘い。うーん、Twitterとかの行儀の良いAPIを見慣れすぎたのかもしれないけれど、ここまで秩序というものを否定されるとつらい。
を奇素数とする。の可逆元からなる乗法群を考える。このとき。なぜならばの位数はゆえにの位数は2、すなわちと同型以外に存在しないからである。の位数がとなるのは、ゆえの元の二乗がちょうど個存在するからである。については、
と示される。
よってからへの、の平方元を0に、それ以外を1に移す写像は準同型写像となる(このことは、の平方元でない元二つを掛けると必ず平方元になることを導く)。
たとえば、交差点で信号待ちをしているとき、僕が突然隣に立っている人に殴りかかったとする。僕はきっとものの十秒もしないうちに取り押さえられてしまうだろうけど、その人はその十秒の間どんなことを思うだろうかと、ときどき急にふと思う。交差点や電車の中や、会社の自分の席なんかで。
普通の人のほとんどは、隣に立っている人がいきなり殴りかかってくる可能性を考えたことなど一度もないし、今後も一度もないだろう。そんな可能性を想定することは、(フレーム問題にも似て、)社会の中で普通に生きていく上で必要なたくさんの仮定をことごとく破壊することだからだ。もしそんな種類の可能性に本当にリアリティを感じるようになってしまったら、きっと家から出ることはできなくなるだろう(それで困らない社会のほうが良くない?という声はする)。武器を持たずに家から出るとか、薄い布で服を作るとか。そもそも他人と協力的関係を持続させることだって難しいのだから、社会はこんな風に発達することもできなかっただろう。
だから、圧倒的理不尽に対して人間が持つことのできる感情は意外とはっきりしていない、ような気がする。僕にただ殴られ続ける十秒の間、その人は何を思うのだろう。何を思えば良いのかがわからない、何を思うことが許可されるのかわからない、そんな風に戸惑ったりしないだろうか。
人間の感情の一部もまた、社会の中でやりとりされるうちに一定の規則・ルールに従うように整形されているのだろうと思う。たとえば、謝ってきた相手を赦すこと。腹を立てることは心情の問題で、謝罪やそれに伴う賠償は物質の問題のはずなのに、なぜかそれらは等価に交換できるとされている。交換できるかのように振る舞わなければならないとされている。そうでなければ社会は困るからだ。同じようなことがたくさん起きているような気がする。自分はこういうとき悲しんでもいい、という社会的お墨付き。むしろそのように振る舞って規則を体現することへの要請。そういったものたちが、一見なによりも不可侵に思われた心情というものを実は強く規定しているのではないか。
だから僕は殴りかかる。この靄の掛かった世界の、新鮮な断面を暴き出すために。感情に喜怒哀楽なんて名前をつけて、そうやって言語にして共有して管理して逃げられると思うな!お前の心はお前のものなんかじゃない、お前が社会でうまくやってゆくために加工した、そんなものは本物の心じゃない!お前たちに教えてやるんだ、お前の存在のもっとも根本的な部分で、お前が何を飼い慣らしてきたのかを!
人を殴ったりする文章、書こうとしたけど、なんかぜんぜん僕にはわからない感じで、いくら書いても冗談みたいになってしまったのでやめました。そういえば最後に人を殴ったのは高校三年のときかな(最後にって言うとなんかそれまで頻繁に殴ってたみたいだけどべつにそんなことはないです)。