早起きして病院に行ったのだけど、昨日休日診療やってたらしくってその振替で休診でした。マジか。まあ今日はそこまで具合悪くないしいいか。
仕事は微妙。途中から頭痛くなってきてしまったのであまり能率が出なかった。うーむ。
寒かったのでセーターを出しました。あと湯船にお湯をはりました。冬が近づいてきますね。冬は嫌いだな。暖かいときはいいけど。
さて明日は休み。ところでさっきから腰が急に痛くなってきたので心配だ。ただの腰痛ならいいんだけど(よくはないけど)。
早起きして病院に行ったのだけど、昨日休日診療やってたらしくってその振替で休診でした。マジか。まあ今日はそこまで具合悪くないしいいか。
仕事は微妙。途中から頭痛くなってきてしまったのであまり能率が出なかった。うーむ。
寒かったのでセーターを出しました。あと湯船にお湯をはりました。冬が近づいてきますね。冬は嫌いだな。暖かいときはいいけど。
さて明日は休み。ところでさっきから腰が急に痛くなってきたので心配だ。ただの腰痛ならいいんだけど(よくはないけど)。
November、かっこよすぎると思うのです。
具合はそこまで悪くないけど持病の調子はよくない。夕方に小一時間歩いた。今度どこかで地図を買って僕が歩いた道を塗りたい。なんかこういうの、うれしい。
あとは哲学探究を読んでいます。ルールに従うということは実際にそうすることなのだ、ということはまあイメージとしてはわかるんだけど、そこまでの議論がぜんぜんピンとこない。いや、でも要するに、「ルールに従っている」ときにそれに付随する特別な物事などというものは存在しないのだから、その実践そのものをそう呼ぶことしかできない、という議論なんだろう。それならわかる。
哲学探究の序文のさいごに「いい本をつくりたかった。けれどもそうならなかった。だが私には手を入れる時間が、もうない。」と書いてあって、これが論理哲学論考の序文だと「この本で伝えている思想が真実であることは、決定的で疑いの余地がないように思えます。」なわけで、ちょっと泣けるなあと思いました。
明日は予定よりちょっと早いけど病院行こうかなあ。いやでも今日ちょっと歩いたらちょっと良くなった気がするしなあ。でも行っておこうかなあ。明後日は休みだし。
数字を贈れるウェブサービスってどうかな。ブラウザで贈りたい数字と相手の名前を入力すると、その人に数字が届く。「κねこせんさんから数字が届きました!」みたいなメールが来る。
昨晩はなんとなく思い立って「哲学探究」を読み始めました。ウィト氏がほんとうに丁寧に歩こうとしているのがよく伝わってくるのだけど、平易な言葉で書かれたからといって内容が読みやすくなるわけでもないのだなあと思いました。
あと今日は「ギルガメシュ叙事詩」を読みました。こないだFate/Zero観た影響ではあるのだけど。ギルガメシュ、全然あんな金ピカ野郎じゃないじゃん(お前はなにを言っているんだ?)。
とにかく欠損ばかりで読みづらいし、別におもしろいものでもなかった(他の神話や旧約聖書のことを知っていたらすこしは楽しめるのかも)けど、エンキドゥが娼婦と交わるとそれまで親しくしていた野生の獣たちがいっせいに逃げ出すところはなんだか神話的だなあと思いました。
ところで、欠損ばかりの文を見ていて考えた冗談がこれです:
そんでとうとう家までついて〔来ちゃってさ 〕
「〔 〕覚悟は出来てます・・・」
とか〔言うわけよ。 〕
〔俺〕もう理性が吹っ飛んじゃって・・・
部屋〔に入っ〕た途端、いきなり〔 〕を
(以下欠、テキストWはこの続きを含むともされるが定説なし。)
今夜も哲学探究読みます。持病の具合が悪い。明日はゆっくり寝たほうがいいかもしれない。
あいかわらず具合が悪い。喉が痛い。仕事はあまり順調ではない。コードレビューがしんどい。土日はゆっくり休みたい。本を読むぞ。あと時間があればElixirの勉強を再開するぞ。でもゆっくり寝たほうがいいかもしれない。そういえば火曜日も休みだ。
具合がよくないです。よくないなりに仕事は進んでいる。でもやっぱり見積もり忘れてたところを埋めているだけだから、進捗的にはよくない状態だろうな。うーむ。
持病の調子もよくないので早く寝たいのだけど、遅くまで仕事してたからなかなか髪が乾かない。ドライヤーを買うべきかもしれない。
独我論とか嘘っぱちなのではという気が急にしてきました。というか、あらゆる他者に関する記述に対してそれを本質的に否定することなんかできず、「でも、それは〈僕〉じゃない。」って言って回ることしかできないのではないだろうか。そんなの言いがかりじゃないか。
お昼から仕事。今日はよくがんばった(当社比)。UIRefreshCntrolはUITableViewControllerでないとまともに動かないらしい。伸び縮みするナビゲイションバーとの共存に数時間掛かってしまった、最終的にはテーブル部分だけコンテナに入れるという暴挙に出た(これは動いた)。
ああ、おまえはよくがんばっているよ。立派だよ。
「ぼくのことを好きにならなくたっていい、ただぼくが嫌いなやつのことを嫌いでいてくれるなら、それでいい。」
厚生労働省の専門委員会は、これらのメルセンヌ素数のうち24253−1、29941−1および211213−1について、発がん性が認められ、健康への悪影響が示唆されると発表。さらに今後の調査次第ではさらなる発がん性素数が発見される可能性もあるとしました。
巨大素数はヒトの体内で素因数分解されることができないため、巨大な素数が脳の細胞を傷つけるなどによりがんの原因となる可能性が以前から一部の専門家によって指摘されていましたが、今回の発表はそれを裏付けることとなりました。
「これはですね、メルセンヌ素数だけが危険というわけではなく、単に性質がよく調べられているというだけで、今後それ以外の巨大素数にも発がん性が認められることは十分有り得ますね」
「巨大素数というと、たとえばRSA暗号方式などは巨大な数の素因数分解の難しさを利用していると言われていますが、こういった暗号アルゴリズムが人体に悪影響を及ぼすことはないのでしょうか」
「仰る通り、巨大素数そのものでなくても、それらの積は体内で巨大素数に分解されるため、同様に危険な可能性があります。その意味ではRSA暗号方式に使われる公開鍵も、直接体内に取り込まれるなどすればリスク要因となる可能性は十分考えられますが、現時点で規制を検討するなどの必要はないと言っていいでしょう」
「ありがとうございました」
仕事はあまり順調でない。繋ぎ込みのコストを甘く見積もりすぎていたせいだろう。作業は進んでいるのだがタスクが減らない。前半戦はとりあえず大丈夫だと思うのだけど、後半で死ぬのかもしれない。遠からず対策を話す必要があるだろう。
僕はもう忘れてしまったけれど、写真が世界のありようを写しているように思われるということはけっして自明なことではないのだろう。しかし僕はもうそれを思い出すことはない。そこにある物に手を伸ばすために、腕や指の筋肉のことを考えないように、写真がただの写真であることを僕は考えない。それが写真のルールなのだ。
絵画というものも、かつてはそういうものだったのではないだろうか。写真がそれを忘れさせる前は、それは世界そのものだったのではないだろうか。あるいは、写真がそれを忘れさせたと思っているのは、それを忘れる前に知りもしなかった僕だけなのだろうか。
カントを読むべきだと思ってはいるのだけど、そんなのいきなり読めるわけないし、意味とか意義とかよくわからないからフレーゲ読むべきでは?みたいなことも思うし、そもそも僕に本なんか読めないのだった。うーむ。ゆっくり、ゆっくりだ。
「サクラノ詩」クリアしました。よかった。何がどうよかったかというとうまく言えない。人々がやっていっている様がとてもよかったとしか言えない(馬鹿みたいな感想だ)。それがこんなにもよいことに思えるとは思っていなかった。
細かいところではいろいろ思ったことはある。ブランコを漕げないのはそれが語られることではなく示されることだからだろう。
指し示すことというのは単に語ることでない以上のたとえになっていて、人差し指をあちらに向けることが指し示すことになることはまったく自明なことではないし、それについて語ろうとすることは膨大な苦労を伴う、にもかかわらず我々は指差されたものを理解することができる。我々はただ規則に従ってふるまう。
今夜髪が乾くまでV章後半とVI章を読み返したい。
仕事はなかなか難しい。進んではいるが当初の予測より時間が掛かっている、というより予測から漏れている。まあ、進んではいるしなんとかなる、でしょう。
具合が悪い。胃腸に来る風邪っぽい気がする。早く寝たい。
今日も「サクラノ詩」プレイしています。というかそれしかしていない。美少女たちが次々と自分に恋してゆく様を眺めるのは、有毒なフィクションという感じがありますね。
高校生くらいの頃の六年間はとても長いものだったと思うのだけど、今の僕にとっては手のひらにおさまってしまう程度の長さでしかないのだなと思います。六年前というと2009年の冬だから、物理学科に内定して解析力学とかやってた頃でしょうか。ああ、そうですね。そうだな。恋とかもしたかもしれない。
赤ずきんのお話って、要するに中間者攻撃よね。
明日からまた仕事。そろそろ前半は大詰めだなあ。
昨夜からずっと「サクラノ詩」プレイしています。ブランコのたとえ話がとてもよかった。
医師「いいですか。もしかすると時々、この世ならぬ誰かが自分を通してこの世界を覗き込んでいるとか、自分の心の声に耳を傾けているとか、それどころか自分の選択を操っているとか、そんな気がすることがあるかもしれません。でもそれは嘘です。気のせいです。惑わされてはいけません。話しかけてもいけません。仮にそんなものがいたとしても、あなたには本質的に関係がありません。あなたは自分の人生を生きるべきです。」
世界が僕だけの世界になって空間的に並列する他者との共有可能性を失った上に、〈今〉の特権性によって時間的にも孤立してしまうなら、もうこの世界は一点にまで収縮してしまって、果たしてそれでいいんだろうか。いや、それってつまり、世界とはこの僕からの「見え」の総体であると言ってしまっているのではないだろうか。だったらやっぱり僕が見ている向こうに
いやいや、まず世界を時間方向に収縮させることが正しいのかよくわからないぞ。それって記憶の実在性を疑うことだろう?でもそれは疑い得ることなのだろうか?というより、それを疑うことは時間という形式を疑うことなのでは?僕やっぱりカントとか読むべきなんじゃない?
ゲームのキャラクタが自分の行動選択を本当に悩むことと、プレーヤがキャラクタの選択肢を悩むこととは、どこが似ていてどこが違っているだろうか?似ているのは明らかに、その選択によって見られるお話が変わってくることで、だから選択者は望ましい結末のために選択肢を選ぶ。違っているのは?プレイヤーが選ぶ選択肢がキャラクタの望む結末(そんなものがあるのか?)へ導くとは限らないこと?